辞職後の笹森は、保守派の中心人物であり、共に県を辞職した大道寺繁禎(
第五十九国立銀行の設立者)と牧場経営会社・農牧社を設立、副社長となる。
1886年(明治19年)には社長の大道寺が中津軽郡長に就任することになったため、代わって社長に選出された。
1892年(明治25年)、農牧社を退職。
農牧社退職後の笹森は、それからの約10年間のうちに日本の周辺を数多く探検し、その記録を残すことになるが、その嚆矢となったものが、まだ農牧社社長の地位にあった
1891年(明治24年)4月から6月にかけて行なった「貧旅行」と称する旅行である。これは、民党(当時は、
野党のことをこう呼んでいた)が主張していた地租軽減地価修正論の是非を確かめることと、各地の生産力と生活の実態を確かめるために行なわれたものであり、
近畿から
九州にかけての広い地域が調査されていた。また、この旅行では、各地の
史跡(例えば
都農神社や
能褒野王塚古墳など)について詳細な調査記録を残しており、これは現在でも資料としての有効性があると評価されている
[東喜望『笹森儀助の軌跡 辺界からの告発』、法政大学出版局、2002年、54頁]。
翌
1893年(明治26年)4月、千島探検のことで
井上馨内務大臣に面会した際に、国内
製糖の振興のため、南島の糖業拡大の可能性を探るように依頼された。笹森より以前に沖縄各島の探検調査を行なっていた
植物学者・
田代安定に教えを請うなど準備を整えた笹森は、同年5月から、
琉球諸島を中心とした南西諸島の探検に向かうことになる。なお、当時の
沖縄県、特に
先島諸島は
ハブと
マラリアが跋扈する危険な辺境の地であり(実際に、例えば田代安定は調査の中でマラリアに罹り、笹森が訪ねた頃はいつ回復するとも知れない病状にあった)、笹森としても死を覚悟しての渡航であった。