半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。また、江藤と島はそもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったのである。しかし、江藤は島より、既に政府が佐賀士族討伐の方針であることを聞き、挙兵の決意を固めざるを得なかった。なお、
戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族は、あくまで政府に忠実な方針を固め、政府軍に協力することとなる。
そのころ佐賀軍は、まず、2月15日に佐賀権令岩村高俊が鎮台兵を率いて佐賀に入城すると、政府の真意を確かめるため山中一郎を代表として派遣した。しかし岩村の「答える必要はない」との返答を受け、同日夜県庁が置かれた
佐賀城(
佐賀県佐賀市)に籠もる岩村高俊と、彼を護衛する
山川浩少佐の率いる熊本鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与え敗走させた。さらに政府軍が福岡との県境にある要衝「朝日山」(現・
鳥栖市)を占拠するため進軍してくると、田尻種博(
戊辰戦争時の大隊長)と井上考継を先鋒として向かわせ、2月22日にはこの政府軍部隊を迎撃した。また、福岡の本営に対しては、三瀬峠に士族軍の参謀長を務める
朝倉尚武(元陸軍少佐)を配し、
山田顕義少将の率いる軍に対抗させた。なお、朝倉は佐賀軍一の用兵家とされ、山田の命で進軍してきた小笠原義従の部隊等を散々に破っている。しかし、大久保利通が直卒した
近衛兵や
鎮台兵などが次々と戦線に投入されると、佐賀軍は次第に劣勢となる。この後も佐賀軍は善戦し、佐賀県東部の中原では、政府軍を包囲殲滅する直前まで追い込んだが、官軍指揮官の
陸軍少将野津鎮雄が自ら先頭に立って兵を励まし戦ったので、ついに敗れ、さらに江藤本人が前線に出ての田手での戦闘でも敗退した。この敗退で勝機を失ったと見た江藤は征韓党を解散し、
鹿児島県へ逃れて下野中の
西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱した。しかし、西郷に決起の意志はなかったため、今度は
土佐へ向かい
片岡健吉と
林有造に挙兵を訴えた。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県
東洋町甲浦で捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかったという。
2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると島義勇は佐賀で討ち死にするつもりであったが、実弟の副島義高らが「境原で官軍を防ぐので再起を期せ」と無理矢理脱出させた。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、3月7日に捕縛された。